すずのうた

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YouTube大学 中田敦彦さんの魅力

中田敦彦さんのYouTube大学、老荘思想前編をわくわく視聴し終わりました!

中田敦彦さんの表と裏があれば、裏編きたーと思っていた人は私だけではないはず。渋沢栄一論語と算盤に強く感銘をうけていた中田さんが表なら、成功し世のため人の為にと思うと同時に、(神ではない人は、)この気持ち自体が欲であって、正しいものから出ていないのではと思った時に、老荘思想の扉が開くような気がした私でした。

中田敦彦さんの魅力は、この表と裏が絶妙にマッチしていて、どちらも分かって、どちらも出来るからこそ、自分はそこから更にどうしていくのかということを模索しているように視聴者にはみえます。そして、見ている視聴者も、中田さんと似たような気持ちがあるからこそ、人に伝えることがうまい中田さんに引っ張られて、おい、これから自分はどうしていくんだ!?と考えさせられてしまいます。人は、話術が旨い人に引っ張られますが、話術よりもさらに引っ張られるのは、どれだけ素直に自分を表現できるかにかかっていると思のです。素に近づけば近づくほど、人は魅力的に見えて、その人のことをもっと知りたくなるので、不思議。そういう不思議な力がYoutube大学の中田敦彦さんにはあります!

 

さて、素直になることは、簡単そうで、案外難しい。自分の素直な気持ちがどこにあるのか、ちゃんと聞けるようになったら、人生迷わないはずなのです。いろんな情報や生まれ育った環境、自分の損得考えて、自分の気持ちを聞かずに迷走する日もあるけれど、でも、毎日少しずつ、自分の気持ちを聞くことが上手になって、素直になれれば素敵です。素直=成功で、素直に自分を裏切らず生きていたら、他人はその人をみてほっとします。自分を痛めつけたり、飾り付けしすぎたりしている人をみると、人は違和感を感じて、少し心が重くなるけれど、素直な人をみると、自分の心に素直さが戻ってきて明るくなって幸せを感じます。素直なだけですごいのです。

 

 

大好きな島田紳助さんがすごいのは音

島田紳助さんが大好きで、年に何回か島田紳助周期が回ってきます。ひたすら、島田紳助さんのトーク番組を見続けるという謎周期。途中、紳助論を語っている芸人のトークを聞いて、なんとかもう見ることの出来ない彼の片鱗を知ろうとしている一介の主婦がいてます。

 

島田紳助とは何だったのだろう。私は、トークの神様だと思っています。緩急、抑揚、テンポ、島田紳助は紳助がもっている声質を最大限にいかせる話し方をしていて、ぶれない。笑わせるときの話し方、説得するときの話し方、涙に持っていくときの話し方、聞いているとある一定の音の法則がある気がします。(入り方の音で、どうなるかなんとなく予想できますね。)そして、どの話を聞いていても、いつもそこには真実の音が紛れている。作り話の中に、ひとつ真実の音が隠れているから、耳はその真実の音に集中してしまい、結果、聞き手はすべてが本当の話しに聞こえて、納得して、笑ったり泣いたり説得されたりしてしまう。聞いていて、気持ちいいこの不思議な感覚。彼の声が持つ不思議な音の粒子の中には、島田紳助という人間性が凝縮されて、聞き手に聞こえてくる感じがします。とても、人間くさい音なのです。それを言葉では隠しつつ、音から聞き手に彼のもっている人間性がダイレクトにはいってくる。

 

人間は、素直な人間が好きです。言葉で素直さを表現出来てなくても、音で垣間見える素直な人間性を、人は瞬時に感じています。島田紳助さんが今も皆の口に上ったり、もう一度話している姿がみたいと思うのは、彼の音が伝えていた人間性によるものが大きいなと思います。人間性が良いとか悪いとかではなく、素直な音が人を安心させ信頼させたのではと感じるのです。こういう音を出せるのが芸なんだよと言われたら、どれだけ人間性磨けば、私はこの音がだせるのかしらと、ため息がでます。

 

ああ、もう一度、島田紳助さんのトークが聞けたら!今、どんな音で喋っているのだろう?想像しただけでワクワクします。本当に本当に今会って話せたら、どんなに嬉しいか。いつか会えるのが夢です。

 

中田敦彦のYouTube大学 ここがすごいっ 

最近、会社の行き帰り、中田敦彦ことオリエンタルラジオのあっちゃんの「Toutube大学」を視聴してます。中田さんの理解力とまとめる力、美しいホワイトボード、そして思わず聞いてしまう話術。特に、私のおすすめは、「【超大作】日本の神話「古事記」が面白い〜第1話〜日本の成り立ちを知っていますか?」から始まる、古事記をざっとまとめて話す3本の動画。本で読んだ時は、日本の歴史の勉強すべく、難しい文章にとりかかるんだという気持ちで読んだ結果、あまり楽しいイメージをもてなかった記憶がありますが、中田さんが話すととにかく面白いし、引き込まれる。私も、会社のプレゼンでこういうことが出来たらなと思って、中田さんの授業をまた別の視点でみています。

 

中田さんのここがすごいよ。勝手な私の感想です。

 

①ホワイトボード

Youtube大学といえば、ホワイトボード。今回話す内容がコンパクトにまとめられています。が、このホワイトボード、単体だけで見ても、あんまり説明できないのではないでしょうか。しかし、授業を聞いた人は、このホワイトボードをみれば、思いだせるようになっています。

Youtube大学のホワイトボードは、授業で必死にとるノートとは別物。暗記するときにひっかかりになるワードが書かれていて、授業を聞いた人は、その前後の記憶が勝手に再生されるような気分になります。

私は、パワーポイントで作る資料が実はあまり好きではありません。パワーポイントは綺麗で読みやすくて、アニメーションも入れる事はできるけど、心に残らないことが、なぜか多い(素晴らしいパワーポイントと話し手に出会ってないからかもしれませんが。しくじり先生はパワーポイント風で進めてましたね。でも、パワポの画像はあまり記憶に残っていないです。)

ホワイトボードは、人が実際に書いているので、字の書き方や大きさ、美しさ、いろんな情報を読み手は無意識に受け取ろうとするので、その分、頭が動いて、授業への集中力をアップさせます。パワーポイントではなく、ホワイトボード1枚で1動画でしていることによって、より伝わりやすく、より興味深くみれるようになっているのではと思います。(そして、このホワイトボードは、話術のある中田さんだからこそ、より引き立つのです。ホワイトボードをダウンロードさせてほしいといったコメント見受けますが、見るべきはホワイトボードではなく、彼の話術と身体の動きですよ!ホワイトボードはあくまで、授業ということが分かりやすくなる装置と、記憶へのひっかかりをよくするための視覚情報のひとつなのではと私は思っています)

 

②話術

普通に授業しているのに、途中で入る小芝居の数々、一言、超面白い。この小芝居を真似したくなって、思わず、巻き戻してもう一回みてしまいたくなる。そして、真似してしまう。真似したくなるのは、中田さんは人が聞いて気持ちよくなるツボをしっているから、リズムや音を自分で再生産したくなってしまうのです。さすが、リズムネタから始まったオリエンタルラジオ

 

③身体の動き

普通の学校の授業で、あれだけ、手や顔の表情が変わるでしょうか。変わらない。あんな動きをしていた先生が一人でもいたら、私はもっと成績があがっていたと思うのです。特に、中田さんの手の動きは秀逸。いえ、私には中田さんの動きは同年代を生きてきたものとして、エヴァンゲリオンが動く姿がみえてしまったりします。エヴァンゲリオンがあれだけ私たちの心に響いたのは、物語だけではなく、身体表現、動きにもあると思のです。(ひどく乱暴な説を唱えておりますが、すみません。)というわけで、人の心をわしづかみにする、手の動きやら腕の動き、それを完璧にものにしている中田さん。そして、中田さんの手の形が美しいので、どんな動きをしても何故か完璧に格好いい。あっちゃん、かっこいい~と藤森さんと同じように心の中で叫んでる自分がいますが、電車の中でNGなので、押さえています。

 

というわけで、まとめると、素晴らしい話術と身体の動きがあるからこそ、あのホワイトボードが生きてくるのです。話術がなければ、ホワイトボードをみたいなんて思わないんですよ、だって、思いだしたいから、中田敦彦のあっちゃんの授業を思いだしたい、脳内でもう一度再生したいから、ホワイトボードをダウンロードさせてという欲求が湧いてくるのです。こんなに勉強が、知的好奇心がわいてきたのは、いつぶりだろう!勉強が好きになる人が増えてくると、幸せになる人が増えてくると思うのです。知識は、人を幸せにするためにあるのですから!中田さんに感謝、ありがとうございます(^^♪

 

里芋の簡単なむき方、やっと発見!

この時期、我が家は福井県大野市からくる里芋を食べます。旅行でたまたま大野市に寄って買って以来、十数年、里芋といえば大野の芋と思うぐらいになりました。ほっこりした里芋しか知らなかった私たち家族に、もちもちした大野の芋は衝撃的。里芋嫌いな方や、冷凍の里芋しか煮物に使わないという、そこのあなた!値段ははりますが、この芋を食べれば、里芋よさようなら、大野の芋以外芋と認めないといいたくなるお味です。

 

さて、昔から、里芋の皮を湯がいたり、電子レンジでチンしたりする以外にどうやったらうまく綺麗に向けるのかと思ってきました。湯がいたり、チンしたりすると、どうしても味が落ちてしまう。包丁で向くしかないのかと思っていたら、夫に「農家用のマルチ洗浄機あるよ」と言われましたが、わざわざ専用機はと思っていました。そして、今年、やっと手になじむ里芋の皮むきを発見、その名も「大さじ」。スプーンでも、ナイフでも良さそうですが、包丁だと実を分厚く切ってしまってうまさまで取ってしまいますが、大さじは皮の部分だけをそっとはがしてくれて綺麗に里芋を裸にしてくれます。専用機と違い、時間はかかりますが、思いをこめて向いたら料理も美味しくなるし、綺麗なむけた里芋をみていると、満足感いっぱいです。来年も、大さじで皮むきしようと誓った私なのでした。(もし、読んでる方で、もっと簡単なむきかたあるよというかた、教えて頂けると、我が家の里芋ライフが充実します。ありがとうございます。)

 

とにもかくにも、大野の里芋、最高!なのです。

 

空と風

洗濯物を取り入れていたら、私の目に綺麗な秋の空が映った。洗濯物をたたみ終えて、皆が帰る時間まで、その空を眺めていようと思った。家の中にはTV,ゲーム、スマホ、私に楽しみをくれるものはあるけれど、久しぶりに、自然の中で時間を過ごそうと考え、外に出た。

 

10月末、寒くもなく、暑くもなく、草の中から虫の鳴く声が聞こえる。鱗のような雲が風に流され、田舎にある我が家からは人の気配も感じない。木と草と土と石、そして空。太陽は沈み始めていて、空の力の方が強い。風がゆっくり吹くたびに、木々を揺らし、土を撫でていく。風は、ゆっくり私を撫でていく。風の前では、私はそこにたたずむ存在のひとつにすぎず、他と同じように撫でていく。どこか見知らぬ誰かも、同じように撫でられて、私と同じような気持ちで空を見上げているのかしら。ものを考えることも忘れていたのに、ふと、見知らぬ誰かを想像したら、私は人だったことを思いだすのだ。ああ、そうだ、ご飯をそろそろ作らないと。もう一度、空を見上げると、風が吹く。こんどは、そっと優しく、背中を押すように風が吹く。さあ、家に帰ろう。

お金を使わない=想像しないということ

手取り14万、お前が終わってんだよ

少し前に、話題になっていた堀江貴文さんの「手取り14万円」の話、リンクを上に張ったので、気になる方はどうぞ。

 

この話を聞きながら、どこかで傷つく自分がいて、傷つく自分が情けないなと思った。

私は、日々、お金を考えないで生きている。

それには理由がある。お金があっても、父が借金を作ってきて、返さないといけなくなっていた日々。私にいくらお金があってもないのと同じだ、あっても私のものじゃないと考えて生きるようになった。私のだと思ったら、父を恨むのではないかと思った。恨むより、そもそもないのだと思った方が楽だった。私にはお金がないので、使うなんて選択支はなかった。あれがほしい、これがほしいも、沢山の理由を頭の中で考えて、お金がない現実にあわせて、私は自分の好きな物を捻じ曲げていって、不必要なものにしていった。私自身、働けない小さな子供時代から、こんな考え方だった。

私にお金を使われるよりも、いつかくる借金にお金をおいてくれているほうが、私は安心だった。借金という問題が、すぐ消える方が私と家族にとっては都合が良く、普段の生活を犠牲にしてもその方がよかった。

 

私は、「手取り14万円」を論じたりする基本ができておらず、そういうお金の付き合い方しかしてこなかった自分を哀れに思う一方で、哀れで止まっている自分が情けなかった。家族をもった現在、経済的なことは特に問題なく回していたとしても、心から楽しくお金と付きあっているかといえば違う。自分の好きなものを諦める方が、私には容易くかった。こんな自分にお金を使うより、お金を使わず我慢している自分に価値を見出す傾向が現在でも多分にあり、お金を使わずにすんだ日の方が何故か安心しているのだ。

 

お金を使わないということは、想像しないということだ。こんな自分になりたい、旅行に行きたい、あの人にプレゼントを贈りたい、花を買おう、そんな幸せな想像をすることを幼少期から自らの手で奪い取ってしまった。お金を使わずとも、もちろん、それを成す術もあろうが、想像力は「何もしてはいけない」で止まっていた私には、発想がでてくるはずもなかった。

 

お金というのは、想像力を膨らませるひとつのキーなのであって、金額は想像力の豊かさなのであろう。全てお金に換算できないというけれど、お金に換算しないことを選んだ結果、私は結構不自由で苦労していたりする。私自身がこの苦労している事実に、今日、この文章を書くことで気づけたのは、本当にラッキーだった。お金と結びつけて想像することを今日からは楽しくできそうな気がする。お金と結びつけると、現実的な行動が目に見えてきて、やる気がでてくるんだなと、もしかしたら世間の人が普通にできていることを私はできていなかったのかと思った。

今日、堀江貴文さんの動画を見て、きっと傷つくだろうと思っていたけれど、傷ついた結果、自分の悪い膿をだせて、今は嬉しい。堀江貴文さんに感謝。

 

死んでいく、年老いていくことを老人に尋ねた結果

今日は、おじいちゃんを助手席にのせて、私はとある場所に向かっていた。おじいちゃんと私の二人きりの空間に違和感はない。私はリラックスしていて、おじいちゃんは久しぶりの遠出に少しわくわくして、そんな二人は普通にたわいもない会話を目的地に着くまで話はじめる。

 

私は、おじいちゃんの生い立ちやら、お父さんのことお母さんの思い出話や、自分の生まれ育った雪深い街での苦労を聞きながら、「死んでいく、年老いていくってどういうことなんだろう。」とこのおじいちゃんに問うてみた。おじいちゃんは「そんなのな、考えでもいいと思うよ。仕事していたら、機械につぶされて、亡くなった友達がいた。ほんの少し前まで笑って、一緒にご飯食べて、毎日一緒にいたやつなのに、あっという間に死んだ。あれから、私は心が沈んでしまって、今になっている。いつ死ぬなんて誰にもわからん。分からんことを考えんでもいいよ。まだ、あなたは、若いんだし、今生きて、喜んでるのがいいことだ。」

 

今日、このおじいちゃんとは初めて会って、初めて話した。周りの人から、こういう人だよと聞いたことはあったけれど、噂話で聞いたおじいちゃんと おじいちゃんが話す優しい語り口とは人が合わなかった。車内には優しい空気が流れていて、普段の私は自分のことを口にはしないのに、おじいちゃんに自分のことを話してみた。おじいちゃんは、うんうんと聞いてくれて、時に自分の話をしてくれたりしていた。「年老いていくということは辛くてさみしいことだ」といった考えを老人は誰しも持っていると私が思っていたこともあって、その私の勝手な想像の老人の悲しみに焦点を合わせて話たり聞いたりしていた。すると、おじいちゃんが、まったく関係ない話をしていたのに、いきなり一言私に向かって言った。「あなたね、もっと明るくするがいいよ。」と。私の考えを射抜くように放たれたその言葉は、しかし、優しく私を包んでいた。私は、はっとした。

 

私は、はっとした。この人に対して失礼なことをした。そして、また、私自身に対しても失礼なことをしたと思った。自分の老人像をおじいちゃんに押しつけ、自分もそうなるのだと自分を呪っていた。おじいちゃんは、私が悟ったことを分かったのか、ゆっくり自分のペースで話しはじめた。私は、そのおじいちゃんを尊敬の眼差しで見ながら、誰がこの人のことを認知症だと思うだろう、この色々な話の全てが作話だったとしても(現に生い立ちは現実あったこととは違っている)、私がおじいちゃんの言葉に感動したことは変えられないのだ。つじつまが合わないとか、話がかみあわないとかそういうことは問題ではなくて、車内でいろいろ話あっている中で、お互いの気持ちが通じた。結果、私は私自身と人を傷つけやすい傾向を理解し受け止め、それを一人の人に許されたのだと思った。おじいちゃんは、「今日は、ありがとう」といってくれた。私は、それ以上のありがとうをおじいちゃんに伝えたつもりだが、気持ちは通じていたのだろうか。通じていて、彼の心にも私がもらった以上の何かが残ってくれれば嬉しいのだけれど。私がおじいちゃんから、もらったものの大きさがみえないほどで、年負うことの偉大さを感じ、私は明るくさせられたのであった。ありがとうとさらに背中につぶやき、私も家に帰るのであった。